« 棗(なつめ)『マラケシの花』/ライナーノーツ | トップページ | 不破大輔(渋さ知らズ) インタビュー (初出『バウンス』) »

2006年1月13日 (金)

レベル・ミュージック・ジャンボリー/アンケート回答

2年ほど前に、『スペクテイター』という雑誌の「レベル・ミュージック・ジャンボリー」という特集用に書いたアンケートの回答です。編集部から頂いた企画意図と質問も併せて掲載します。

(企画意図・かなり長いので前略)特集では、過去さまざまな権力に対して反旗をひるがえしてきた偉大なミュージシャン達の足跡を振り返りながら。地下クラブやライブハウスで現在進行中のミュージシャンたちの意識に焦点をあてながら、管理下のすすむ世の中を少しでも明るくするためのアイデアを読者に提供していきたいと考えてます。
さて、前置きが長くなりましたが、今回お尋ねしたいのは以下の2つの質問です。

質問・ あなたが今もっともリアルに共感を寄せているレベル・ミュージック(アルバムもしくはシングル)を一枚あげてください。 

質問・ その音楽は何に対して「反逆」していて、そこにどのような気持ちを重ね合わせて聴いていますか?(作品の紹介を含め、400字程度で綴って下さい)

「レベルミュージック・ジャンボリー」(抵抗音楽集会)と題した今号の特集の最後を飾るこのコーナーは、いわばイベントのフィナーレを盛り上げる演目のようなものと考えて頂けたら幸いです。世の中の不条理な動きに疑問や不満を抱きながら集った(けれども、どうやって反抗していくべきか模索している)若い観客(読者)にむけてレコードをかける。

そんな気持ちで、とっておきの一枚をご紹介願えれば幸いです。



+++++++++++++++++++++++++++

(以下、筆者の原稿)

・アルバム
FRANK ZAPPA/THE MOTHERS『Fillmora East-June 1971』


・回答
 この特集および質問で使われている「反逆」とは、私たちの権利や権限や自由を規制しようとする、特定の権力や体制に対して使われているものでしょう。その背景にCCCDやCDの逆輸入規制といった問題が横たわっていることを考えると、まず脳裏に浮かぶのがフランク・ザッパのことです。80年代に、リスナーがレコードをテープにダビングして交換するのを、レコード会社が躍起になって取り締まろうとしたことがありましたが、ザッパはそれを批判し、本当にミュージシャンにとって損害となるのはむしろ組織的で悪質な一部のブートレグ・ビジネスである、と問題の本質を言い当てました。また、87年頃にDATが登場し、レコード会社がCDのコピーを促進するとしてその普及に猛反対した際も、ザッパはこのレコード会社の態度を問題のすり替えでしかない、と一蹴したのです。残念なことですが、どうやら事態はそれから20年経った現在も、さして変わりがないように思えます。その後ザッパは音源の自己管理に着手し、ブートレグ音源を正規盤としてリリースすることになるのですが、こうしたメンタリティーが現在フィッシュをはじめとするジャム・バンドに受け継がれているのは言うまでもないでしょう。あるいはもっと身近なところでは、メジャーを離れ自主制作に徹しているECDのような在り方に通じるものかもしれません。
 しかし、ここではもう一歩踏み込んで考えたいのです。反逆の対象は、必ずしも自己の外部に、しかも具体的な形をともなって立ち現れてくるとは限らないはずだからです。私たちを束縛し、不自由へと追いやる「制度」は、実は声高に“自由を!”と叫んでいる自らの内部に備わっていることもある。そのことをまず、自覚すべきではないでしょうか。言い換えれば、知らず知らずのうちに従順になってしまった身体というものを、今一度、真の意味での解放へと向かわせるべきだと思うのです。
 少し話が抽象的かもしれませんが、こうした「制度」とは、あらゆる場所に点在しているものです。自分にとって最も身近な仕事の話をすると、音楽雑誌にはレビューの文体にも、インタビューの質問文にも、記事の構成にも、ある程度それを前提としなければならないようなステレオタイプ、つまり特定の「制度」が存在します。良心的なライター/評論家はいかにその「制度」に縛られずに個性を発揮できるかを自問自答しているはずですが、とはいえ、多くの職業ライターは「仕事」として既にある「制度」の中で文章を書かなければならないため、当然ここに葛藤が生じます。現在、音楽雑誌がつまらないと言われている要因のひとつは、この「制度」がなし崩し的に存続し、それを破壊するような書き手の居場所がない、ということと関係しているのではないでしょうか。
 そして、こうした図式は音楽を演奏する者にもまったく同様に当てはまるものです。例えば、フリー・ジャズ、フリー・インプロヴィゼーションと呼ばれる世界。“フリー”を謳っていながら、その多くは単なる手癖や安易な反応(相手が高い音を出したから、自分は低い音を出す、等)の積み重ねで成り立っていたり、あるいは過去に“フリー”と呼ばれた音楽の形式を踏襲したものだったりします。後者に関して言えば、“フリーという型”を演奏しているだけで、こうなると、芸術ではなく、ほとんど芸の世界です。かつてデレク・ベイリーというギタリストがノン・イディオマティック・インプロヴィゼーションという、過去の音楽的語彙を徹底して拒絶する奏法を提示したことがありましたが、10年も経てば、彼のスタイルを模倣する者が多数現れ、ノン・イディオマティックであることすらひとつの型と化してしまいました。
 こうしたマッチポンプ的循環を回避するには、やはり内側に存在する制度と徹底して格闘すべきでしょう(ちなみに現在、その格闘をこの世界で最もラディカルに実践しているのが、メンバー一新後の大友良英ニュー・ジャズ・クインテットだと思います)。
 さて、ここでもう一度前半の文章に立ち返ってみましょう。<反逆の対象は、必ずしも自己の外部に、しかも具体的な形をともなって立ち現れてくるとは限らない(中略)私たちを束縛し、不自由へと追いやる「制度」は、実は声高に自由を叫んでいる自らの内部に備わっていることもある>。少なくとも僕の目にはレコード業界もフリー・ジャズも音楽雑誌も、この内在化されてしまった「見えない制度」ににより自由を失いつつあるように思います。
 最後に、そうした制度に一貫して「反逆」し続けた/し続けている敬愛すべき音楽家をほんのごく一部ですが列挙しておきます。阿部薫、あぶらだこ、ECD、遠藤賢司、大友良英、オーネット・コールマン、エリック・ドルフィー、クリスチャン・マークレー、高柳昌行、ジョン・ゾーン、ソウル・フラワー・ユニオン、じゃがたら、ノイ!、パブリック・エネミー、ピチカート・ファイヴ、ブライアン・イーノ、フランク・ザッパ、フリッパーズ・ギター、ヘンリー・ロリンズ、マイルス・デイヴィス。ん…、何か大事なアーティストを入れ忘れているような気がするのですが。(2004.3.31記)

|

« 棗(なつめ)『マラケシの花』/ライナーノーツ | トップページ | 不破大輔(渋さ知らズ) インタビュー (初出『バウンス』) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/158588/8133529

この記事へのトラックバック一覧です: レベル・ミュージック・ジャンボリー/アンケート回答:

« 棗(なつめ)『マラケシの花』/ライナーノーツ | トップページ | 不破大輔(渋さ知らズ) インタビュー (初出『バウンス』) »