2009年5月 2日 (土)

toi劇評

toi「四色の色鉛筆があれば」
主宰/黒川深雪 作・演出/柴幸男
三軒茶屋シアタートラム
1月28日 14:00
 〝平田オリザ・チルドレン〟などと呼ばれる劇作家/演出家の躍進が目覚ましい昨今。平田率いる青年団で研鑽を積んだが演劇人が、彼が広めた現代口語演劇を敷衍した作風で軒並み高評価を得ている。東京デスロックの多田淳之介やハイバイの岩井秀人らと共に、青年団演出部に在籍する柴幸男もまたそのひとり。平田作品をラップで上演するなど、以前から独創的な演出方法に定評のあった彼だが、本公演で遂にその才能が全面的に開花した印象だ。
 舞台は相互に連関した4つのエピソードから成る。リレー形式でひとりの人物を複数の役者が演じる「あゆみ」、時間を巻き戻すかのように恋人の別れから出会いへと遡行する「純粋記憶再生装置」にも感服したが、圧巻だったのが、「ハイパーリンくん」と「反復かつ連続」。前者はタイトル通り、ワールドワイドウェブの発想を演劇に援用したもの。「万有引力の法則」「林檎」「赤い」「夕暮れ」……と、物理や科学にまつわるタームが連想ゲーム的に発せられ、それらが有機的に繋がりあい、最終的には宇宙の真理に迫る程の深遠な話に発展する。
 一方後者は、ある家庭の朝食の風景を再現するひとり芝居。四女、三女、次女、長女、母になりきった女優が、同じシーンを繰り返し演じるのだが、一度演じられた役の台詞は録音されて次のシーンに被せられ、徐々に会話の全貌が明らかになってゆく。つまり、ベースラインだけを最初に聞かせ、次にドラム、そして鍵盤で和声をつけ、といった風に、多重録音により楽曲が完成するプロセスを開陳するかのように、ひとつのシーンの解剖図が示されるわけだ。
 おそらく柴の演出技法の根底には、音楽で言うサンプリングやリミックス的な発想があるはず。そう思い公演終了後に彼のブログを覗くと「サンプリング元ネタ大会」なんて記述が(そこには、本誌読者にもお馴染みの音楽家の名前もちらほら!)。「演劇外のものを演劇的に体験させる」、「元ネタとは違う新しい文脈で体験させる」という彼の実験は、この公演で見事に実を結んだと言える。土佐有明(初出:『ミュージック・マガジン』08年2月号)

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2009年4月19日 (日)

演劇関係の仕事一覧

■パンフレット他
「本谷有希子論」を、本谷有希子『幸せ最高ありがとうマジで!』パンフレットに寄稿。
ポツドール『愛の渦』再演に際しての初公式パンフレットで、すべての取材・構成を担当。
コムコム.com 康本雅子・桜井圭介インタビュー

■『ミュージック・マガジン』 ランダム・アクセス 劇評欄
07年5月号 ポツドール『激情』
07年8月号 劇団、本谷有希子『ファイナルファンタジックスーパーノーフラット』
07年12月号 毛皮族『おこめ』
08年2月号 劇団、本谷有希子『偏路』
08年5月号 五反田団『さようなら僕の小さな名声』(再演)
08年9月号 おやつテーブル『秘密の応接間』
08年12月号 毛皮族『暴れて嫌になる夜の連続』
09年3月号 toi『四色の色鉛筆があれば』

■『スタジオボイス』 CUT UP PLAY欄
07年12月号 本谷有希子インタビュー、07年舞台ベスト(珍しいキノコ舞踊団、ミクニヤナイハラプロジェクト、ポツドール、シベリア少女鉄道)
08年6月号 前田司郎作・白井晃演出『混じりあうこと、消えること』、椿組『新宿番外地』紹介記事
08年9月号 毛皮族・江本純子インタビュー、吾妻橋ダンスクロッシング、本谷有希子パルコ公演『幸せ最高ありがとうマジで!』紹介記事
08年12月号 サンプル『伝記』、大橋可也&ダンサーズ『帝国、エアリアル』紹介記事

■『TOKION』
07年12月号 本谷有希子インタビュー

■『MARQUEE』 連載「土佐有明のPLAYGROUND」
第一回 快快、チェルフィッチュ、ハイバイ、ニブロール、デス電所などを紹介
第二回 ポツドール『愛の渦』(再演)、珍しいキノコ舞踊団、快快を紹介
第三回 『キレなかった14才りたーんず』、巡礼、ハイバイを紹介

■『シアターガイド』
08年10月号 本谷有希子巻頭インタビュー
09年1月号 押井守インタビュー

■webDICE 土佐有明の「(ほぼ)初日劇評」 www.webdice.jp/dice/series/12/
第一回 ポツドール『愛の渦』(再演)
第二回 柿喰う客『恋人としては無理』
第三回 庭劇団ペニノ『苛々する大人の絵本』(再演)

■『土佐有明 WORKS1999~2008』『Kate Paper』に吉田アミとのポツドール1万字対談掲載

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2008年6月25日 (水)

日記はこちらにつけています

http://d.hatena.ne.jp/ariaketosa/

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2008年6月16日 (月)

ニック・ベルチュ『ホロン』レビュー 初出:『ミュージック・マガジン』08年4月号

  71年スイス生まれのピアニスト/コンポーザーが率いるグループのECM第二作。前作は本誌年間ベストのジャズ部門にも選出されるなど高評価を獲得し、個人的にもかなり愛聴した覚えがあるが、本作も基本的にはその延長線上にある。
〝禅ファンク〟を自称する彼らの音楽性は、端折って言えば、複雑なポリリズムと螺旋状のミニマリズムに基づく楽曲をジャズ的な質感の演奏で聴かせるというもの。その催眠的なグルーヴの推進力は執拗な反復だが、時に奇数拍子と偶数拍子が錯綜しもつれ合うなど、リズムの構造は騙し絵のようなトリックに満ちている。一部の即興パートを除き、ほぼすべてが譜面をベースにした録音らしいから、驚異的な集中力で寸分の狂いもなくビートを刻むバンドの演奏力にも感嘆せざるを得ない。
  ジョン・ケージやモートン・フェルドマンから学んだ冷徹なまでのストイシズム、ステーヴ・ライヒやフィリップ・グラスといった大家に連なる反復の美学、ジェームス・ブラウンやフェラ・クティにも劣らぬ強靭な肉体性。それらが渾然一体となることで、ジャズ本来の雑駁さが炙り出されてゆく様は実に刺激的だ。
  延々と円環運動を繰り返すグルーヴの迷宮を彷徨ううち、意識がゆっくりと、しかし確実に覚醒してくる。この陶酔感をよりダイレクトに味わう為にも、来日公演には万難を排して向かうべき!土佐有明

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ミドリ『あらためまして、はじめまして、ミドリです。』レビュー 初出:『ミュージック・マガジン』08年5月号

  正直、最初はイロモノだとタカを括っていた。ライヴで超ミニのセーラー服を着用して客席にダイブするヴォーカル・後藤まり子の突飛な挙動にばかり目を奪われていたからだろう。インタビューで自分のことを〝ボク〟と呼ぶ彼女のヤンデレ系キャラに妙な作為を感じて勝手に敬遠していた。今思えば、まったくの誤解であり偏見だった。情けない。
  というわけで、新ベーシストを迎え4人組となった本作に感動し、即、過去のアルバムをコンプリート。スラッシュ・メタルと昭和歌謡とスウィング・ジャズが共存する高度で特異な音楽性を評価できなかった自分を猛烈に恥じているところである。
  卓越した演奏技術が可能にする破天荒な展開の連続。デス声の戸川純を擁するファントマスが時にジャジーなアレンジも辞さないハードコア・パンクに挑戦した、なんて珍妙な形容しか浮かばないほど、その楽曲は自由で乱脈で節操がない。こりゃ、ソウル・フラワー・ユニオンに気に入られるのも分かる気がする。
  冒頭で<好き、好き。あなたが、とても好き>と甘い声で囁いた数秒後に、<デストロイ!>と窓ガラスが割れんばかりの絶唱を聴かせる後藤は、紛れもなく〝本物〟だ。泳ぐのを止めたら死んでしまう回遊魚よろしくテンパった彼女が、ラスト前の「ハウリング地獄」で連呼する<しあわせ、こわい。>というリフレインがマジで恐ろしい。土佐有明

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2008年4月11日 (金)

本谷有希子「偏路」劇評(初出『ミュージック・マガジン』08年2月号)

 演劇界の芥川賞とも称される岸田國士戯曲賞、その07年度の最終候補に残った公演である(受賞作発表は1月28日)。これまで3度候補に上りながらいずれも苦杯を舐めた作・演出の本谷有希子は、自らを〝M-1における永遠の笑い飯枠〟と自嘲気味にコメントしているが、今回こそは悲願達成なるのではないか。そう思わせるに足る、劇作家・本谷の面目躍如たる作品だった。
  ホームドラマを標榜する本作で本谷が設定したテーマは、〝善意〟。かつて野田秀樹は<この人の人間への悪意は紛れもない才能である>と本谷の戯曲を評したが、その才能を自覚してなお、今回彼女はあえて手つかずの領域へ踏み込んだわけだ。
  物語は女優になる為に上京した主人公が、夢を諦めて都落ちするところから始まる。訪れた田舎の親戚宅で彼女を迎える父や叔母や従妹は皆〝善意の塊〟であり、彼らは「エンタの神様」を観て一家で爆笑し、休みの日にサティで買い物をするのを楽しみにしている。夢を捨て帰郷を決意した彼女には、そんな退屈で薄っぺらい日常を受け入れるしかもはや道はないのだが、当然、そこには苦悩や葛藤が生じる。煩悶する彼女の奇矯な言動はやがて周囲をも巻き込んでゆくことになり……。
  〝善意〟をテーマに据えてはいるが、結局のところ、ここで描かれているのは本谷作品の根幹を成す〝自意識〟の問題だ。女優の才能がなかったことを認めながらも、肥大した自意識ゆえに半端なプライドを捨てきれず、退屈な田舎暮らしを地獄と感じる主人公。地元の靴流通センターでバイトする自分の姿を想像して絶望する場面が、何よりも象徴的だ。
  ユーモアのセンスが小説に較べ十全に発揮されていない点、挿話やキャラ設定が山本直樹などの漫画に酷似している点等々、細かい瑕疵はいくらでもある。だが、自意識の問題をここまで徹底して掘り下げ続ける表現者を、本谷以外に僕は知らない。その覚悟と姿勢が〝善意〟というテーマを突き抜けて表出した点を、何より評価したいと思う。土佐有明

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2007年11月27日 (火)

00年代ディスクガイド(初出『スタジオ・ボイス』)

サンボマスター
インタビューを読むとよく分かるが、ソングライター・山口のリスナーとしての嗜好は極めて渋谷系的であり、例えば小西康陽がそうであるように、無数の音盤への偏愛が彼を創作へと駆り立てているのは間違いない。だが一方で、彼らは精神論でロックを語る青臭さやアナクロニズムも持ち合わせている。「愛と平和!」と恥ずかしげもなく連呼し、情けなく不器用な自分をさらけ出すことも躊躇しない。サウンド面で肝要なのは、ガレージ・パンク的な焦燥感に満ちた爆音の端々から滲み出る、愚直なまでのソウル・ミュージックへの憧憬、いや、忠誠だろう。よくよく聴けば、山口の清らかなギターはまるでフィル・アップチャーチのようじゃないか?

NILS PETTER MOLVAER『Solid Ether』
ECMが彼と契約した時は少し驚いたが、ややあって、要するにかつてブルーノートがセシル・テイラーと契約したのと同じようなものか、と得心した。ダブやトリップ・ホップ、ドラムンベースなどを織り合わせたダークで硬質なトラックに、ジョン・ハッセル直系の幽玄なトランペットが絡み合う。ノルウェー・ジャズの隆盛ぶりに日本のリスナーの目を向けさせ、いわゆる“フューチャー・ジャズ”なるタームを流布させることになった重要作。

ウンベルティポ『フェズンティズム』
道半ばで解散したティポグラフィカがやり残したことを、ダンス・ミュージックの享楽性や機能性に特化してアップデートさせたのがDCPRGだとすれば、ウンベルティポはリズムの微細な“訛り”や“揺らぎ”を譜面化して再現するという、ストイックな作曲家路線を選んだと言える。自在に伸縮するグルーヴに合わせて弾きまくる今堀恒雄のギターは、ザッパが生きていたら絶対に自分のバンドに引き抜いていただろうと夢想させる壮絶さ。

OORUTAICHI『Yori Yoyo』
新しい表現は誤解や曲解からこそ生れる、というテーゼをオオルタイチは身をもって示す。それも計算づくじゃなく、あくまでも天然で、だ。ダンスホール・レゲエを盆踊りとカンチガイし、ヒップホップと祭囃子を混同してしまったような、歪なトラックとハナモゲラ語。狂気とユーモアが背中合わせで同居する世界は、シロー・ザ・グッドマンやイルリメやヘア・スタイリスティックスはもちろん、ブラジルのトン・ゼーとも同列に語られるべき。

CAPSULE『Sugarless GiRL』
perfumeを筆頭とする中田ヤスタカの膨大な裏方仕事に対する評価も含めての選出。バービー人形のような女性ヴォーカルに主役を張らせ、職人肌の男性がコーディネート役に徹するという構図は否でもピチカート・ファイヴを連想させる。事実、00年代の筒美京平とでも言うべき小西康陽と中田がアイドルや声優に楽曲提供する際のセンスには、近いものを感じる。本作は歌ものハウスを基調とした、ダンス・オリエンテッドな仕上がり。

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2007年8月25日 (土)

People Tree フリッパーズ・ギター (初出『bounce』)

http://www.bounce.com/article/article.php/1177

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2007年5月26日 (土)

青春に呪われた物語、アニメ版『時をかける少女』を読み解く――あるいは、これは死ぬまで続く「ぬるい地獄」である。

  「要するに、青春をやり直したいんだよ! 高校2年に戻って、学園祭の準備とかしたいね」――先日、友達にそんなことを真顔で力説したら、「はあ?」という反応をされてしまった。哀しかった。そんな風に、青春の思い出をずるずると引きずっている大人って、僕だけなんだろうか? いや、決してそんなことはないだろう……という前提でこの文章を書き始めようと思う。じゃないと始まらないし。ちなみに、僕みたいな人種を、歌人の穂村弘は“青春ゾンビ”と呼んでいる。そう、これは32歳にもなって失われた青春の再生と反復を夢想、仮想、いや、“妄想”している、かわいそうな青春ゾンビの手記なのだ。だから、「この人、かわいそー」と思いながら読んでくれ!
  冒頭で書いたような妄想に火が着いたのは、1本のアニメーションとの邂逅がきっかけだった。タイトルは『時をかける少女』、略して『時かけ』。一般的には、筒井康隆の小説を大林宣彦が映画化したヴァージョンが有名かと思う。主演の原田知世が歌った主題歌がヒットしたから、若い人もタイトルくらいは知っているのでは? アニメ版『時かけ』は、その映画の20年後が舞台で、当時の主人公だった女性の姪がヒロインとして登場する。ストーリーは完全な書き下ろしで、監督は気鋭のアニメ・クリエイター、細田守。妙に政治的で説教くさい最近のジブリアニメが失ってしまった、幼児的な全能感とヒロイズムを正しく継承している才人だ。

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2007年2月18日 (日)

ソニック・ユース『ラザー・リップト』レビュー(初出『ミュージック・マガジン』)

  近年のソニック・ユースは、バンド本体とメンバー個々のサイド・プロジェクトを、完全に別ものとして捉えるようになってきている。集団即興や現代音楽寄りの作品は、SYRをはじめとするインディーからリリースし、メジャーから出るバンド本体のアルバムは、あえてストレートで正攻法のロック・アルバムに仕上げる、と。そしてジム・オルーク脱退後初となるこの新作で、その構図はいよいよ鮮明になった感がある。
  まず驚かされるのが、1曲1曲がこれまでになくコンパクトにまとめられている点。長尺のインプロヴィゼーションやノイズ・パートはほぼ皆無。全曲がミドル・テンポのエイト・ビートで、簡潔でけれん味のないロック・チューンが続く。ダイナソーJr.との仕事で知られるジョン・アグネロのミックスも、全体のバランスを取りつつ、ヴォーカルをクリアに聴かせることに腐心した様子だ。
  ただ、そうした変化によって作品の魅力が薄れたとは思わない。むしろ、リスナーによっては冗長と感じただろうノイジィな即興を思い切って切り落とすことによって、本作は贅肉のないシャープでソリッドなロック・アルバムに仕上がっている。初めて聴いた時に連想したのは、最近スリル・ジョッキーからリリースされたトム・ヴァーレインの14年ぶりの新作だった。
  推測だが、フリーキーでノイジィな側面を期待するリスナーは別プロジェクトの作品を聴いて欲しい、と彼らは思っているのではないか。事実、バンドの持つ前衛指向は、既にサイド・プロジェクトで充分すぎるほど満たされているはずだ。ティム・バーンズと組んだSYRの第六弾(05年)の他、ノルウェーのスモールタウン・スーパージャズからはディスカホリック・アノニマス・トリオの新作(06年)、マッツ・グスタフソンらと共演した‘HIDRO 3’(04年)なるアルバムも発表している。いずれも、メンバーのコアな趣味性を、誰に気兼ねすることもなくアウトプットした結果の作品である。
  思えば、ナンシー・シナトラやブリジット・フォンテーヌといった敬愛するアーティストとの共演も果たしているし、バンドを取り巻く状況は今、かなり充実しているのではないか。サーストンはよくインタビューで「ソニック・ユースのCDの売り上げは最悪」「メジャーにとっては悩みの種」と自嘲的な発言を残しているが、そうした冗談が気軽に言えてしまうのも、本当にやりたいことはインディーでやれている、という自負があるからこそだろう。
  結成から25年。自分たちにとってベストの居場所を確保したバンドの、自信と余裕のほどが窺えるアルバムだ。土佐有明

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2007年2月14日 (水)

曽我部恵一『ラブシティ』レビュー(初出『ミュージック・マガジン』)

  先日、サニーデイ・サービスの『東京』を曽我部恵一が再演した『東京コンサート』を聴いて、あれから10年か……と、物思いに耽ってしまった筆者である。まだ学生だった96年、歌詞の一字一句を覚える程聴き込んだ『東京』は、今なお青春の1枚であり続けている。おそらく、URCやベルウッドの再発盤を聴き漁っていた当時の〝気分〟も関係していたのだろう。例えば『風街ろまん』や『み空』や『センチメンタル通り』がそうであるように、あの頃、街を歩く時はいつだって『東京』が頭の中で鳴っていた。そんな記憶が、うっすらとだが、今でもある。
  だがこの新作を聴いて、そんな風に感傷に浸っている場合じゃないよ、俺は今こそが最高なんだから、とにかくこれを聴いてみてくれよ、と。まるで曽我部恵一に面と向かってそう言われているような気分になってしまった。いや、それくらい彼の現在の充実ぶりが伝わる力作だということである。
  振り返ってみるに、ソロになってからの曽我部は、あえてスキや隙間を残したラフスケッチ風の作品を、かなりのハイペースでリリースしてきた。『曽我部恵一』や『スケッチ・オブ・シモキタザワ』は、日記調と言ってもいいほどにパーソナルな空気に貫かれていたし、『ストロベリー』や『ラブレター』は、プリミティヴな衝動が横溢する一筆書きのようなロックンロール・アルバムだった。いずれも、ラフでざっくりとした感触があるという意味では共通していたと言える。
  けれど、この新作は違う。立体的な音像は時間をかけて細部まで丁寧に作りこまれた印象で、かつ、どの曲も一度聴いたら忘れられないほどメロディが立っている。曲調の振れ幅も広く、まるでここ10年のキャリアを総括したような風情すら見え隠れする。
  カーティス・メイフィールドを想わせるグルーヴィーな1曲目、サニーデイ時代の残像が眩しいフォーキーな2曲目、激しくドライヴする8ビートの3曲目、ミニマル・テクノ風のビートが際立つ4曲目と、冒頭から異なるタイプの曲が続く。そもそも曽我部は、ニール・ヤングやジョン・レノンを敬愛すると同時に、セオ・パリッシュやラリー・レヴァンも愛聴するようなリスナーだが、そうした柔軟な嗜好が本作には直に反映されている。それでいて全体のトーンが一貫しているのは、その濃密でセクシーな歌声と甘い毒気を孕んだメロディが不変だからだろう。
  『東京』のような蒼いセンチメンタリズムはもう、ここにはない。だが、プライヴェートで父親になり、音楽家としても成熟を遂げた曽我部恵一の頼もしい姿が、本作には確かに刻まれている。『東京』から10年、ここからまた何かが始まるという期待すら感じさせる、そんな代表作の誕生だ。土佐有明

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バッファロー・ドーター『ユーフォリカ』 レビュー(初出『ミュージック・マガジン』)

  大野由美子がドン・ウォズばりにいなたくエグいスラップ・ベースをおもむろに弾き出すと、ゲストの外山明がシュアーなフィルインで切れ込んでくる。追い討ちをかけるように被さってくるのは、ジェームス・チャンスが憑依したようなやけっぱちでひきつった咆哮。叫んでいるのは山本ムーグだ。本来なら、気絶するほどカッコイイこの1曲目だけでもう参りましたと白旗を上げたいところだが、以下、演奏は更に熱を帯び加速してゆくのだからたまらない。アルゼンチン音響派の裏番長フェルナンド・カブサッキを3曲に迎えたことで闘争心に火が点いたのか、シュガー吉永のギターもいつになく凶暴なプレイで迫る。ファンキーなカッティングから一転、鋭利なノイズを撒き散らす様など、エディ・ヘイゼルとグレン・ブランカとアート・リンゼイが合体したみたいでもある。
  ESGやリキッド・リキッドをフロア対応に仕上げたようなミニマル・ファンクあり、Pファンクとリジー・メルシー・デクルーが衝突事故を起こしたようなダブ・ディスコあり、マテリアルとノーナ・ヘンドリクスの共演を連想させるエレクトロ風あり。つまりは、1980年前後のNYに跋扈した異形の音楽たちからの影響があちらこちらに伺えるつくり。直接メンバーに確かめたわけではないが、ZEレーベルのコンピレーション‘MUTANT DISCO’、あるいはソウル・ジャズの編集盤‘NEW YORK NOISE’あたりをかなり聴きこんだ(あるいは聴き直した)のではないか。ビートの質感が似通っていることも関係あるが、ディスコもダブも初期ヒップホップも同じ俎上に乗せられていた〝あの頃〟特有の自由な空気が、本作のトーンを決定付けている。それでいて単なるリメイクや焼き直しという印象を一切与えないのは、先述のような音楽が、既に意識せずとも滲み出てしまうほどに彼らの血となり肉となっているからだろう。
  そして、もうひとつ重要なトピックと言えるのが、これまでになく歌に力点が置かれたアルバムに仕上がっていること。シュガー&大野のハモりがほぼ全曲でフィーチャーされている他、山本ムーグがほとんど悪ノリとも言えるセクシー・ヴォイスで苦笑を誘ったりも。演奏はかなりトンがっているのに総体としては持ち前の人懐っこさが失われていないのは、やはこのヴォーカルの効果によるところが大きいはずだ。
  ニュー・ウェイヴ・リヴァイヴァルは面白がっていたクチの筆者だが、ヘタなパチもんを掴まされるんだったら、こういう地に足の着いた音をずっと聴いていたいもの。活動を再開したZEのミシェル・エステヴァンがひょんなことから目をつけたりしないか等々、楽しい想像も尽きぬ大傑作だ。土佐有明

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サンボマスター『僕と君の全てをロックンロールと呼べ』レビュー(初出『ミュージック・マガジン』)

  すべてにおいて過剰なバンド、というのがサンボマスターに対する第一印象だった。青臭い自意識の葛藤を描写した歌詞、間断なくシャウトし続ける饒舌なヴォーカル、全速力で性急に疾走するビート。アルバム1枚を通して聴くと疲労感でぐったりしてしまうほどの熱量が、そこには込められていた。
  そしてその過剰さゆえに、彼らに対する評価は大きく分かれてきた。押し付けがましくて暑苦しいと極端に嫌悪する人がいる一方、真摯でアツいから大好きだという人も多数存在する。過剰であるが故に支持され、過剰であるが故に嫌われてきた、というか。
 ただ前々作、前作は、この過剰さがアレンジ面で裏目に出た部分もあった。終始ハイテンションで飛ばすのが身上なのは分かるが、余りにも展開がストレートすぎて、単なる〝青春パンク〟で片付けられてしまうこともしばしば。僕はそうした状況に、少なからず歯がゆさを覚えていたクチだった。
  この新作も、相変わらずヴォーカル山口の過剰な想念が全編に充満する、濃密で濃厚な作品だ。おまけに全18曲70分というヴォリューム。こりゃあ胃もたれするかな、と最初は心配していたのだが、いざ聴いてみるとこれまでよりもずっと風通しが良い。その過剰さゆえに過去の作品に拒否反応を示した人にも、自信を持って奨めたい作品である。
  その原因として真っ先に挙げられるのが、彼らが度々その影響を口にするニュー・ソウル的なニュアンス。ライヴのSEには毎回シュガー・ベイブを使い、山下達郎と対談をし、取材ではカーティス・メイフィールドやダニー・ハサウェイの素晴らしさを熱く語っていた彼ら。実際、ガレージ・パンク然とした演奏に隠れて意外に留意されないが、テンション・ノートを多用したその和声感覚は実に洗練されている。コード進行とメロディだけとりだしてみれば、まるでピチカート・ファイヴみたいな曲だってあるくらいだ。
  そうした凝ったコード進行の楽曲をパンク的なメンタリティと強引に同居させてしまったのがこのバンドの新しいところだったわけで、山下達郎が「3ピース・バンドの尺度からすると歴史的に見てもえらい変わってる」と語っているのも実に納得が行く。大袈裟に言えば彼らは〝和製ザ・ジャム〟なのではないか?と思ってしまうほどだ。
  それにしても、そうした音楽的な面白みが正面から語られないのは彼らにとって不幸だと思う。かつての椎名林檎もそうだったが、サブカル的な関心度は高くても、純粋に音楽としてどうか?というところは案外触れられずじまい。過去の偉大なる音楽を巧みに咀嚼する彼らの力量は、例えばフリッパーズ・ギターにだって匹敵するのではないかと、僕は思うのだが。土佐有明

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2006年7月17日 (月)

『BLUE』映画評(初出『ミュージック・マガジン』)

  若く未熟であることは、それだけでひとつの特権だ。地位も財産も経験もロクに持
ち合わせていないからこそ、若者は戸惑いながらも輝くことができる。“まだ何者で
もないこと”は“これから何者にでもなれること”の裏返しなのだから。
 しかし、未熟であることは、同時に強烈な劣等感の源ともなる。魚喃キリコの同名
コミックを映画化した本作で描かれているのも、未熟さゆえの劣等感から生じる苛立
ちや嫉妬や羨望、恋心などが交錯する風景だ。主人公は、海辺に近い女子高に通う、
カヤ子(市川実日子)と雅美(小西真奈美)。カヤ子は、自分とは対照的に大人びた
雰囲気の雅美に憧れ、ふたりは自然と寄り添うようになる。そして、やがて互いに
「好き」であることを確認し、キスを交わす。
 とはいえふたりのかけひきは、恋愛感情というよりは、やはり劣等感を軸に循環す
る。カヤ子は、慣れた手つきで煙草をふかし、自分の見たこともないCD(アズテック
・カメラ)や絵(セザンヌ)を勧めてくれる雅美に、憧れと(その裏返しとしての)
敗北感を抱く。一方雅美は、CDも絵も、その不倫相手に影響されて受動的に知ったも
のであり、本当は「自分には何もない」のだと内心苛立っている。結局、先に〝何者
かになろう〟と脱皮を計ったのはカヤ子のほうだった。進路決定を直前に控えた夏休
み、彼女が美大進学に向けて絵を描き始めるところで、この循環は終焉を迎える。
 制服の濃紺や海辺の群青が織り成す「青」のイメージや、大友良英による牧歌的な
音楽によるところが大きいのだろうが、物語としてはかなりヘヴィな展開も含まれて
いるのに、鑑賞後の印象はむしろ清々しい。いや、眩しい、と言うべきか。
 若い時分に特有の劣等感は、悩みの種としてネガティヴに作用することもあれば、
逆に、具体的な行動を促すための強力な武器に転じることもある。観ていて、何度も
そんなことを考えさせられた。土佐有明

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『うつ依存症の女』映画評(初出『ミュージック・マガジン』)

  音楽評論家としても知られる作家、エリザベス・ワーツェルの自伝小説が映画化さ
れた。一般的な見所は、うつの泥沼の中でもがき、奇行を繰り返す主人公のリジーを
演じるクリスティーナ・リッチの鬼気迫る演技、あるいはルー・リードが本人役で登場
する場面だろうか。しかし、観賞後、最も深く重い余韻を残したのは、問題児だった
はずのリジーが、新世代の抗うつ剤・プロザックを服用することで精神の均衡を取り
戻して行くという、終盤の展開だった。
 日本が米国の後を追うように“うつ病大国”となった現在、既に説明の必要もない
だろうが、ドラッグと抗うつ剤とは全く逆の性質を持つ。かつて鈴木慶一やパンタも
語っていたが、ドラッグが「我を忘れるための薬」であるのと対照的に、抗うつ剤は
「我に返るための薬」である。しかし、本作の主人公リジーは、ドラッグやアルコー
ルに耽溺し、常に我を忘れながら生きてきた女性。それだけに、我に帰り平穏無事な
日々を過ごすことは、逆に彼女にとって違和感に満ちた経験だった。終盤で彼女が発
する「この私は一体だれ? めちゃくちゃな性格だけど、それが(本来の)わたし
だったはず。(今の自分は)薬で作られた人格だわ。覆い隠すって感じよ」といった
一連の台詞は“本当の自分”とはそもそもどこにあるのか? というあまりにも根源
的な問いを内包している。
 この問いに対し、かつて鶴見済は著書『人格改造マニュアル』の中で、「人格とい
うのは本来一貫したものだ」という思い込みこそが「自分は変われない。一生このま
まなんだ」という重い足枷につながると説き、薬や洗脳やサイコセラピーで「脳を
チューニングし、ラクチンに生きる」ことを提唱した。確かに同書の内容はそれなり
に説得力を持つが、この映画を観終わった後ではその主張はやや楽観的すぎるのでは
?とも思えてくる。リジーが終盤で見せた葛藤や逡巡は、同書が救えない類のもの
だったのだから。土佐有明

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2006年3月13日 (月)

日本のジャズ重要盤 自薦10枚 (初出『スタジオ・ヴォイス』)

仙波清彦とはにわオールスターズ 『イン・コンサート』
DCPRGや渋さ知らズで若い衆が踊り騒いでいる昨今、時に70名を超えるメンバーが揃ったこのグループがもし今も活動していたら?と想像せずにはいられない。歌謡曲と純邦楽とビッグ・バンド・ジャズが混在する悠大なメルティング・ポット。奥田民生、戸川純、小川美潮といった歌い手を立てることで、混沌よりも明朗さを指向する祝祭空間を作り上げている。(土佐)

藤川義明 『イースタシア・オーケストラ』
アート・アンサンブル・オブ・シカゴと渋さ知らズを繋ぐ存在ではないか、と密かに思っている。アラビックな旋律も交え妖艶で不穏なアトモスフィアを現出させるこのライヴ盤には、シンク・オブ・ワンのデヴィッド・ボヴェイだって惚れ込んでしまうはず。アジア大陸を悠然と闊歩する総勢13名の楽団の行進。梅津和時、片山広明、井上敬三の絶倫サックス3人衆も絶好調。(土佐)

Tipographica 『The Man Who Does Not Nod』
96年の時点でこのウネウネと蛇行するライヴ盤がメジャーから出ていた、というのがまず驚き。エイフェックス・ツインやスクエアープッシャーのスラップスティックなビートも、これを聴いた後では緩慢に感じられるほど。クラシックへの劣等感を拭えぬ一部のプログレと似て非なる地点へ到達し得たのは、屈折したユーモアと冷徹な批評性を併せもっていたからか。(土佐)

ヴィンセント・アトミクス 『ヴィンセントⅡ』
フェラ・クティやジンバブエのトーマス・マプフーモ、ショナ族のムビラなど、アフリカ音楽のミニマルな側面を参照したアンサンブルが本作の肝だろう。芳垣安洋率いる精鋭8名が発するのは、ねっとりと絡みつく熱帯雨林系の濃厚なグルーヴ。そこにコンポステラからシカラムータの系譜に通じる土着的な匂いのメロディが立ち込めると、国籍不明音楽の出来あがり。(土佐)

阿部薫『ザ・ラスト・レコーディング』
阿部薫が異端と放埓の人として神格化されている現状を、歯痒く思うことがある。その瑞々しい作品群を一部の熱狂的な信者の占有物にしておくのは余りにも勿体無い。未体験の方、ニュー・ウェーヴ再評価と言うならポップ・グループやコントーションズと並列にこの独演も聴いてください。泣きながら怒っているようなサックスにECDを思い出す、という人もいるでしょう。(土佐)

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2006年3月12日 (日)

ハルカリ小特集 (初出『リミックス』)

 一瞬で消え去ってしまうからこそ美しいと思えるものがある。その儚さゆえにどうしても慈しみたくなってしまうものがある。いずれ終わってしまうことが分かっているからこそ、せめて今だけはせいいっぱい愛してやりたいと感じさせるものがある。僕にとってハルカリとはそういうものであって、喩えて言うなら線香花火である。だから、今この瞬間、彼女たちがここにいること、ふたりの声がここにあることはちょっとした奇跡である。あらかじめ失われると決められているがゆえの奇跡――。

  “刹那”という言葉をここまで好意的に連想させ、豊饒なイメージとともに焼きつけてくれる音楽があっただろうか、と彼女たちのファースト・アルバムを聴きながら何度も何度も、深い溜息をついている。9曲目「Hello,Hello,Alone」の中の一節<夏は、終わるのに>という、短く、簡素で、ありふれた、字面だけ見れば陳腐とも言えるこのフレーズはしかし、ハルカとユカリの口をついて遊び出す時、瞬間と永遠が循環する壮大なポエジーへと、一瞬にして姿を変える。夏は終わる、というあまりにもほろ苦い響き。8月の終わりの、ああもう夏休みは終わりなんだという、あのどうしようもなくビターな寂しさを、このリリックは鮮明に思い起こさせてくれはしないか。

  彼女たちは大人たちから、若い、ということを強調されているのではないか、と想像してしまう。中学生と高校生? いいねえ、若いねえ、肌キレイだねえ、といった会話が彼女たちと大人たちの間で何度となく交わされているような気がする。実際、ふたりは若い。けれど、問題なのはただ若いからどうこう、ということではなく、その若さがあと何年後かには失われてしまうということが、既に、あらかじめ、 100パーセントの確率で決められてしまっている、ということにある。

 リリックはプロデューサーが書いている。みな大人である。その大人たちの言葉に、思い描くイメージに、彼女たちはなんとか追いつこうとしている。決して必死にはなったりがむしゃらになっているわけではないが、こんな感じかな?と手探りで自分たちにしっくりくるポイントを探し当てようとしている。その姿は、たどたどしくて、とてもあぶなっかしい。大丈夫?と手を差し伸べてしまいたくなる瞬間も少なくない。そして、そのあぶなっかしさやたどたどしさが、社会という枠に収まる術を身につけてしまった大人たちには、どこまでも眩しいものとして映る、とは言えないだろうか。もちろん、ラップはそれなりに流麗だ。言葉と声が併走する際のスピード、加速していくスリルも魅力だ。けれど、いつどっちに転んでしまうか分からないという不安、未完成であるが故の揺らぎのようなものは、常につきまとう。それこそが、僕の考えるハルカリがハルカリたるゆえんである。

 だから、等身大の魅力、とか同世代からの共感、というよりありふれた構図よりも、“かつてハルカリだった大人たち”が、消え去ってしまったかつての自分を見出してオイオイ泣いている、という姿のほうがしっくりくる。過去の自分を投影してカタルシスを得ているのだろうか。戻れない昔を思い出して感傷に浸っているのだろうか。確かに、卒業アルバムの中のモノクロームの写真が、突如として色づきありありと立ち現われてくるのを目の当たりにしているかのような感覚を、ハルカリのファースト・アルバムは味わわせてくれる。

 繰り返すが、このあぶなっかしさは、いずれ失われてしまう。技術や経験を積めば、その表現は否が応でも成熟へと向かうだろう。だから、正直、ハルカリはいつまでハルカリでいられるのだろうか?と不安でもある。いや、正確には、ハルカリはいつまでハルカリでいられるかどうかが分からないからこそ、美しく、眩しい。案外、ハルカとユカリは早くに結婚して、普通の主婦になってしまうかもしれないし、OLとして淡々と仕事をこなすようになるかもしれない。つまり、ハルカリはハルカリをいつか卒業するように思えてならない。まだファースト・アルバムを出したばかりなのこんなことを言うのもナンだが、何故だろう、そんなことばかり考えてしまう。

  「ハルカリっていうのは……そうですねえ、なんだったんだろう、今思うと、まあ部活みたいなものだったのかもしれませんね」――そんな風に、折り目正しい口調でふたりが笑って話す日が来るのだろうか。そう思うととても切ないし、だから何度もハルカリを聴いてしまう。ベランダに転がったままのセミの抜け殻を眺めながら、夏休みは終わってしまった、という感慨にふけりながら。

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2006年3月11日 (土)

ハルカリ「ストロベリーチップス」推薦文

  普段何気なく会話をしているのと同じトーンでラップしたり歌うというのは、やってみると案外難しい。例えば、カラオケに行って人前で歌う時、「いいとこ見せてやろう」なんて邪念が働いて、急に声色が変わってしまったなんて経験、誰にでもあるんじゃないだろうか。要するに、声に余計な“自意識”が入り込んでしまうってわけだ。それはプロのミュージシャンにもよくあることで、最近目立つ、巻き舌で語尾をこねくりまわしたり、キンキンに声を張り上げてフェイクするラッパーやシンガーはその極端な例だろう。ちなみに僕はそのテの音楽が苦手でしょうがない。「私はこんなに高い声が出るのよ! ほら、歌、うまいでしょ?」みたいな自己宣伝を過剰に押しつけられている感じがして、気持ちが萎えてしまうんだもの。

  そこで、ハルカリである。彼女たちがいいのは、そういうジャマな“自意識”が歌声からまったく感じられないところだと思う。当たり前のようだけど、これって奇跡的なことじゃないだろうか? だって、豪華なプロデューサー陣がトラックやリリックを提供して、プロ・スタジオのブースに入って歌録りをして、それが全国のレコード店にずらりと並ぶ……となれば、なかなか平熱を保てるものじゃない。変に恰好つけたり照れたりしてしまって、自意識過剰のループ状態に陥ってしまっても不思議ではないはず。もちろん、彼女たちだって戸惑いながら歌ったりラップしているのだろうけど、それでも邪念とかカッコつけがその声から透けて見えてこないのは、やっぱり奇跡的だと思う。で、字面だけ見るとこっぱずかしかったりもする恋愛関係のリリックなんかも、彼女たちの声に乗ると、嫌味がなくて素直に泣けちゃったりして。いや、これ、マジックだよなあ、やっぱり。

  自然体? 天然? うーん、ちょっとそれも違うんじゃないだろうか。だって、今のシーンを見ていると、むしろ“自然体であろうとする自意識”とか、“わたし天然なんですよ、という積極的なアピール”のほうが大勢を占めているように思えるもの。つまり、必要以上に天然とか自然体ってことを言いたがる輩に限って、逆の意味で自意識過剰であるってこと。その点、ハルカリの声のトーンは本当にフラット。例えば、サビのパートになったら急にグワーっと盛りあがってテンション上がる、なんてありがちなパターンじゃなくて、1曲の中でずーっと6度5分をキープしている感じ。そして、あのカラっとドライであっけらかーんとしたラッピン。ホント、貴重だよなあ。

  ところで、先日『リミックス』という雑誌でハルカリの原稿を編集部の方と分担して書かせてもらったのだけど、それを読んだ読者の方からのハガキに「ハルカリに翻弄されているおとながふたり」というものが…。僕はこれを読んで、「本望だよ!」と思いましたね。だって、29にもなった男が中学生と高校生のラップに翻弄され、ドキドキ、ドキマギできるなんて、とーってもロマンがあって素敵なことじゃないですか? というわけで、ハルカさん、ユカリさん、今度ライヴ見に行きますので、たとえ緊張していてもあくまであっけらかーんとラップして、僕を翻弄しまくってくださいね。楽しみにしてます。

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2006年1月18日 (水)

不破大輔(渋さ知らズ) インタビュー (初出『バウンス』)

http://www.bounce.com/article/article.php/1157

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2006年1月13日 (金)

レベル・ミュージック・ジャンボリー/アンケート回答

2年ほど前に、『スペクテイター』という雑誌の「レベル・ミュージック・ジャンボリー」という特集用に書いたアンケートの回答です。編集部から頂いた企画意図と質問も併せて掲載します。

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