一瞬で消え去ってしまうからこそ美しいと思えるものがある。その儚さゆえにどうしても慈しみたくなってしまうものがある。いずれ終わってしまうことが分かっているからこそ、せめて今だけはせいいっぱい愛してやりたいと感じさせるものがある。僕にとってハルカリとはそういうものであって、喩えて言うなら線香花火である。だから、今この瞬間、彼女たちがここにいること、ふたりの声がここにあることはちょっとした奇跡である。あらかじめ失われると決められているがゆえの奇跡――。
“刹那”という言葉をここまで好意的に連想させ、豊饒なイメージとともに焼きつけてくれる音楽があっただろうか、と彼女たちのファースト・アルバムを聴きながら何度も何度も、深い溜息をついている。9曲目「Hello,Hello,Alone」の中の一節<夏は、終わるのに>という、短く、簡素で、ありふれた、字面だけ見れば陳腐とも言えるこのフレーズはしかし、ハルカとユカリの口をついて遊び出す時、瞬間と永遠が循環する壮大なポエジーへと、一瞬にして姿を変える。夏は終わる、というあまりにもほろ苦い響き。8月の終わりの、ああもう夏休みは終わりなんだという、あのどうしようもなくビターな寂しさを、このリリックは鮮明に思い起こさせてくれはしないか。
彼女たちは大人たちから、若い、ということを強調されているのではないか、と想像してしまう。中学生と高校生? いいねえ、若いねえ、肌キレイだねえ、といった会話が彼女たちと大人たちの間で何度となく交わされているような気がする。実際、ふたりは若い。けれど、問題なのはただ若いからどうこう、ということではなく、その若さがあと何年後かには失われてしまうということが、既に、あらかじめ、 100パーセントの確率で決められてしまっている、ということにある。
リリックはプロデューサーが書いている。みな大人である。その大人たちの言葉に、思い描くイメージに、彼女たちはなんとか追いつこうとしている。決して必死にはなったりがむしゃらになっているわけではないが、こんな感じかな?と手探りで自分たちにしっくりくるポイントを探し当てようとしている。その姿は、たどたどしくて、とてもあぶなっかしい。大丈夫?と手を差し伸べてしまいたくなる瞬間も少なくない。そして、そのあぶなっかしさやたどたどしさが、社会という枠に収まる術を身につけてしまった大人たちには、どこまでも眩しいものとして映る、とは言えないだろうか。もちろん、ラップはそれなりに流麗だ。言葉と声が併走する際のスピード、加速していくスリルも魅力だ。けれど、いつどっちに転んでしまうか分からないという不安、未完成であるが故の揺らぎのようなものは、常につきまとう。それこそが、僕の考えるハルカリがハルカリたるゆえんである。
だから、等身大の魅力、とか同世代からの共感、というよりありふれた構図よりも、“かつてハルカリだった大人たち”が、消え去ってしまったかつての自分を見出してオイオイ泣いている、という姿のほうがしっくりくる。過去の自分を投影してカタルシスを得ているのだろうか。戻れない昔を思い出して感傷に浸っているのだろうか。確かに、卒業アルバムの中のモノクロームの写真が、突如として色づきありありと立ち現われてくるのを目の当たりにしているかのような感覚を、ハルカリのファースト・アルバムは味わわせてくれる。
繰り返すが、このあぶなっかしさは、いずれ失われてしまう。技術や経験を積めば、その表現は否が応でも成熟へと向かうだろう。だから、正直、ハルカリはいつまでハルカリでいられるのだろうか?と不安でもある。いや、正確には、ハルカリはいつまでハルカリでいられるかどうかが分からないからこそ、美しく、眩しい。案外、ハルカとユカリは早くに結婚して、普通の主婦になってしまうかもしれないし、OLとして淡々と仕事をこなすようになるかもしれない。つまり、ハルカリはハルカリをいつか卒業するように思えてならない。まだファースト・アルバムを出したばかりなのこんなことを言うのもナンだが、何故だろう、そんなことばかり考えてしまう。
「ハルカリっていうのは……そうですねえ、なんだったんだろう、今思うと、まあ部活みたいなものだったのかもしれませんね」――そんな風に、折り目正しい口調でふたりが笑って話す日が来るのだろうか。そう思うととても切ないし、だから何度もハルカリを聴いてしまう。ベランダに転がったままのセミの抜け殻を眺めながら、夏休みは終わってしまった、という感慨にふけりながら。
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